エレカシ宮本

エレカシはガストロンジャーからの遅れた来たファン。
勿論以前から知ってはいたけど、ちゃんと聴く機会がなく時間だけが過ぎていた。
ファンになる前にTVとかで感じた印象は、サービス精神豊かな、面白い人、小心者。
べらべらと油紙に火がついたようにしゃべる姿にどこか、自分に似たものを感じてた。

子供の手が離れて、好きな音楽を聴く時間も以前より取れるようになり、
スカパーを導入して音楽チャンネルを見ているとパワープッシュされて何度も流れる曲の中にひときわ、心を揺さぶられる曲があった。
「ガストロンジャー」だった。

目が離せないと思った。
彼の届けるメッセージを全て受けとめたくなった。
CDを買い、TVをチェックし、ライブに出かけた。
ちょうどその頃始めたインターネットで、エレカシのファンサイトに行き、エラそうに、いろいろまくしたてたりもした。
知れば知るほど、宮本はどこか自分に似ているように思えてならなかった。

無類の淋しがりで、小心者で、その反動で虚勢を張ってるってイメージ。
彼は子供の頃に友達から仲間外れにされたことが未だにトラウマになってるのか、良くインタビューでもその話題が出てくる。
思うのだけれど、宮本はメンバーと仲良く楽しくやれることなら、それが音楽である必要は余りなかったのではないのだろうか?
偶然なのかそれがたまたまバンドであったのは運命と言うべきなのか?
神に愛されて生まれてきてしまったものの宿命として、彼には幸福か不幸かはわからないけれど、音楽の才能があった。人を魅了するものを持っていた。
だからプロになってしまったけど、宮本自身には音楽は絶対無二のものではなかったはず。少なくともそのスタート時点では。
デビューの時、ソロでって話をことわったのは、メンバーを思ってというより、彼自身が他のエレカシのメンバーを必要としていたとしか思えない。

ガストが出たころBRIDGEで渋谷陽一にソロでやるべきでは?
みたいなことを言われたのを読んで、某HPにアタシはこんなことを投稿した 。
『バンドの中にあっても、孤独と向かい合い自立することで揺らぎない自分のポジションを作って欲しい。』
その時アタシはそうなって欲しいと心から願っていた。

最近宮本はパリに行ったそうだ。
建築家「ル・コルビジュエ」にハマって、彼の建築物を見たいが為の渡仏。
以前の急須や浮世絵に変わるものが今度は?
別に音楽だけをやってろってファンの傲慢さで思うのではない。(そう思うのもアりとは思うけど)
自分は表現者宮本浩次のファンなのでたとえば昨年物議をかもした、ドラマ出演についても、あの時期(ツアー中)でなければ、そして納得できる内容のお仕事なら応援したいし、賛成出来る。
だけど、どっかで逃げてる様に感じてしまうのは自分だけだろうか?
本当に真摯に音楽に向かい合ってくれてるんだろうか?
「good morning」は素晴らしいアルバムだったと思う。昔からのファンには賛否両論あったようだけど、もっと評価されてしかるべき傑作だった。と、自分は確信している。
宮本自身も「やった!」ってもんだったはずなんだけど、充分な評価が与えられなかった苛立ちなんだろうか?

彼のことを思うと切ないし、苦しい。
でも聴かずにはいられないのだ。

27日までDODAの全面広告だらけの電車が山手線を走ってるそうだ。
電車の中が宮本だらけ!
乗りたい!!!と思ってしまう、ミーハー丸出しの自分もいる。
宮本にはそんな魅力もあるのだ。
それに取っ付かれてしまった以上とことん見届けるしかないのだろうな。