見た、聴いた、感じた、飲みこまれた、フジロック

なんなのよ、あのライブは、苗場のステージとオーディエンスで1つの宇宙を作っているじゃないの。
直前までの雨が上がったばかりで星1つなかっただろう苗場の真っ黒い空間はまさに「黒い宇宙」だった。

あそこにいたのはあたしの知ってるブランキーじゃなかった。
ベンジーはもう母を求めて泣く、迷子の子供なんかじゃあなかったし、
ステージの上を殆ど移動しないでひたすら演奏する3人の姿もいつもと変わらないはずなのに、とてつもなく大きな存在に変わっていた。
ラストのラストでこんな大化けをしやがって、まったくなんてやつらだろう。

あんな赤タンは始めて聴いた。ううんすべての曲があたしの知ってるものとは違ってた。どこがどう違うのか、上手く言えなくてじれったいけど。
あたしの知ってるブランキーは危うい魅力を持った細いワイヤーの上でギリギリのバランスをとっている、そんな存在だった。
3人の資質、特にベンジーのそれに負うところが大きいのだろうけど、まずベンジーが音楽でやりたいことがあってそれをブランキージェットシティーってバンドの中で化学変化させていったのが、それまでのBJCだったように思う。
だけど苗場の3人は危うさなんて感じさせないそんなものを超越した、とてつもない存在に変貌していたんだ。

誰かがブランキーのことを重甲装の戦車に乗った少年兵だと言っていた。確かにしっかりとしたリズム隊の照井と達也にささえられてベンジーが自由に遊んでいるように見える。
なんといってもベンジーの存在はボーカルで主要な楽曲の作者だってこともあって、特別なポジションにあったことは確かだ。だからファン以外の目から見るとブランキーベンジーのバンドというイメージが持たれていた部分が大きかったと思う。

でも、ファンなら判っているように、BJCは3人のバンドで、誰か一人が欠けても成立しない、奇跡のような存在だったのだ。

フジでの達也はいつもの愛嬌のある表情やおどけた仕草を見せることもなく、うつ向き加減でただドラムに向かっていた。その姿は魂のありったけをドラムに次ぎこんでいるように見えた。
誰よりもブランキーを愛していた達也がブランキーを終わらせる為にはやはり「LAST DANCE」だけではダメだったんだ。達也をずっと見てきたあたしは思い込みかもしれないけど、それを確信した。
横アリであたし達はBJCの3人に愛を貰ったけどあのライブは3人が始めてファンの為にしてくれたライブだったと思う。

だから自分達の為のステージとして用意された(藤井マネージャーの言葉から)フジロックは彼らがブランキーを終わらせる為には必要な儀式だったのだ。

苗場のステージは儀式の会場で、オーディエンスは見届け人だった。
その聖なる儀式をつかさどるマスターは誰よりもブランキーを愛し、おそらく1番ブランキーを終わらせたくなかったはずの達也。
そう誰でもない達也自身だったのだ。

いつもお気に入りのライブ映像を見るときは集中しやすいように部屋を暗くする。
そして1人なのを良いことに(主婦の特権)踊り狂うことが多いんだけど、
この映像は途中で体が固まってしまった。
それがほどけたのはラスト近くの「僕はヤンキー」
髪を振り乱しながら「ヤンキー!」と叫ぶ達也。その声を聴いたときあたしは椅子にすがりつきながら、溢れる嗚咽を止めることが出来なかった。

そしてシャーベットの隠しトラックで弾け、DIJでマイクを投げ倒した照ちゃんに再び胸を熱くした。

フジに行かれなかったのはあたしには仕方のなかったこと。
納得していたはずだけど、儀式に参加出来た人達に嫉妬を感じてしまった。
最後にステージを去る達也は両手を上げておそらくこの日始めての笑顔を見せてくれた。
あたしの知ってるいつもの達也の笑顔だった。

儀式は終わった。

この後「BABY BABY」がアンコールで演奏されたのだけど、それは放送されなかった。
見たくないと言ったら嘘になる。けれど、これで良いのだ。
マスターが笑顔を見せた時、それは儀式の終了を意味する。
アンコールの「BABY BABY」はおそらくこの日唯一ファンの為に演奏してくれた曲だったと思うから。
それならあたしは横浜アリーナでもう貰っているのだから。