中村達也

中村達也という男がいる。
宇宙最強のバンド「ブランキージェットシティー」のドラマーだ。

もちろんBJCは2000年の夏で解散した。

だけどあたしの中では今でも中村達也は「ブランキージェットシティー」のドラマーなのだ。
過去形にはならないね。多分一生。
いつまでも引きずってるのかって?
でも違うんだ、あたしの中ではずっと彼らの音が鳴り止んでいないのだからしょうがない。
達也のドラムはあたしの心臓の鼓動だから、 あたしが生き続ける限り、彼らの音は鳴り続けてるんだもの。

達也を始めて見たのは深夜のTV「イカ天」の1週目。
昔っから体にお絵描き(!)のフェチだったあたしは3人にひとめぼれ!
ぽーっと見とれていたら、あっという間に演奏は終わってしまった。
曲でガツンと来たのはむしろ2週目の「MOTHER」だった。

審査員の「ボーカルの彼、凄くきれいな目してるね」ってコメントに
「ボーカルだけじゃないだろ!」って突っ込み入れたのはあたし。
3人ともそりゃあ澄んだきれいな瞳が印象的だった。

その中でも特にガハハ!って笑う達也の笑顔ときたらさぁ。
ハートをわしづかみだってば。
アノ日からあたしのブランキーへの思いはどんどん加速して行ったんだよな。

気がついたら達也のことをどうしようもないくらい好きになっていた。
何より達也の音をまず耳が、達也の姿を目が、達也のすべてを心が
知らず知らず追っていた。

自分が淋しがりやだから達也もそうだってすぐにわかったし、
傷つきやすそうな無垢なところも、お茶目でやんちゃなところもみーんな大好きになった。
判ったようなこと言ってるよね?あたしってばさ。

98年「ロメオの心臓」このアルバムでBJCは打ちこみを導入した。
どうして達也がいるのに打ちこみなんて使うのか?
理屈じゃなくてショックだった。
達也のことを考えると胸が痛かった。
せっかく買ってきたCDもなかなか聴けなかった。
その頃は雑誌のインタビューも恐くて読めなかった。
当時のことを後から達也は「どうして良いのかわからなかった」
と言っている。
「他のドラマーを使ってくれ」そんなことを言ったこともあったそうだ。

いよいよ解散?この2文字があたしの頭にはいつもあった。

だけれど、BJCは帰ってきた。
「ハーレムジェット」ラストアルバムになってしまったこのアルバム。
「ロメオの心臓」でBJCが終わらなかった。 そのことだけで、あたしには充分意味のあるアルバムだ。

達也はBJCが大好きだったんだから、最後のアルバムが「ロメオの心臓」じゃあ悲しすぎるもの。

BJCの一番の魅力は危ういアンバランスにも見えるギリギリのところでバランスを保ってる 細い糸の上で綱渡りしているようなところだと思う。
それは他のどんなバンドにもない特別なもの。 唯一無二の存在。

BJCの10年は奇跡の10年だった。
10年も続いたのも達也の力も大きかったはず。
あんなに多くのバンド歴を持つ達也が10年間続けたBJC
そのことだけでも達也がどれだけBJCのことを好きだったのか良くわかる。
いや、なにより達也を見て、彼のドラムを聴けば、すぐにわかるよね。

そんな達也はどんな思いでBJCの最後を迎えたのだろう?
2000年7月9日横浜アリーナで「まあ、いろいろあるけん」と言った達也。
だめだ、あたし涙が止まらないよ。

事実上の最後のライブとなった2000年のフジロック
達也はどんな風にBJCに別れを告げたのか? 人づてに聞いたり、去年一部放送された編集版(約20分)の映像で確かめた限りでは壮絶なものだったようだ。

そして今、あたしの前には先日WOWOWで放送された2000年のフジロックのライブを収めた90分のビデオテープがある。

これを見たらあたしの中で何かが変わるのだろうか?
期待と不安、ありったけの愛。
10年間のあたしのBJCへのすべての思い。
7月9日の横浜アリーナでもう涙は流さないと決めたはずだけど・・・。
今あたしはビデオデッキのスイッチを入れようとしている。

あたしは「中村達也BJCのドラマーだった。」
と、過去形で言う事が出来るようになるのだろうか?